マイストーリー

幼少期 音楽との出会い

沖縄県宮古島平良市(現宮古島市)にて3人兄弟の長女として生まれ、音楽好きの母の影響から、幼いころより童謡を聞いて育ちました。
当時買ってもらったレコードが大のお気に入りで、中でも「ドロップスのうた」は繰り返し何度も聞いていました。
レコードジャケットの魅力的な挿絵も重なって、曲の世界に吸い込まれていくようなそんな不思議な感覚と共に聞き入っていたことを覚えています。
ピアノが置いてあった応接室では父親がよく名曲のレコードをかけてくれたり、母親がテノール歌手やギター、ウイーン少年合唱団、ボニージャックスなど数々のコンサートに連れて行ってくれました。
また、通っていた保育園では、礼拝の時間に賛美歌を歌ったり、午後にはクラシックや映画音楽が流れていたりと、名曲がいつも身近な存在でした。

小学生 音楽との出会い

10歳(小4)より地元の少年少女合唱団に入りました。
とてもおとなしく引っ込み思案の私を心配した母が勧めてくれた場でした。
そんな口数の少ない私でしたが、見覚えのある同じ学校の友達や同世代の仲間と歌を歌うことはとても楽しくて、胸の高鳴りを抑えることができないほど興奮したのを覚えています。
学年が上がると、下の子のお世話やパートリーダーとしての仕事を任せてもらえました。
このことも歌うことへの自信につながったと思っています。
今、振り返れば指揮や伴奏の先生方が、私たち団員の成長を温かく見守り支え、楽しい環境を作って下さっていたからなのだと感謝の気持ちでいっぱいになります。

ピアノと私

すでに小1から通っていたピアノは、合唱団では味わえないまた別の喜びがありました。
1人静かにピアノの前に座り、楽譜を読む、弾く作業は私にとって心地よいものでした。
発表会では、妹とお揃いのドレスを着て演奏することや、成長するにつれ、選曲のグレードが上がっていくことなど楽しみが増えていきました。
高学年から中学生にかけては、一つ年上の先輩に憧れ、自分も同じように難易度の高い名曲を弾きたいという気持ちが強くなりました。
ちょうどその頃、近所にピアノ教室がオープンしたことで教室を移動することとなります。

中・高校生 衝撃のできごとと音大への道

新しい教室に入会したその日のレッスンで、既習曲を弾いた私は先生から衝撃の一言を受けました。
「この指の形でずっと弾いてきたの?」と。
てっきり褒めてもらえるとばかり思っていましたので何のことかわからずにいました。
どうやら私の弾き方は正しいフォームではなかったようで、その日から先生との「理想的な正しいフォーム」の練習の日々が始まりました。
脱力の仕方なども一つ一つ丁寧に教えてくださいました。
ついてしまった癖を直すのは、とても大変な作業でした。
先生は私以上に大変だったと思いますが、どんな時も感情的にならず、穏やかにご指導くださいました。
フォームはだいぶ改善され難易度の高い曲も弾けるようになってきた3年後、進路のことも気にかけてくださり、音楽大学の道に進むには、と次のステップとなる教室を紹介してくださいました。
                                                                                    ご夫婦で指導されていた音楽大学受験教室は、すでに多くの先輩後輩が通っており、自分が出遅れていることを痛感しました。
そこでは声楽歌曲の伴奏を生徒が担うことが必須でしたので、私も先輩方の伴奏を数多く受け持ちました。
この経験は、大学に入ってからも生かされましたので、非常に役立ちました。
声楽の先生は、思いやりにあふれていらっしゃった分、厳しさもあったので、上手く演奏できず泣く友もいました。
そんな時、奥様であるソルフェージュの先生がオムライスやデザートなど手料理を全員に振る舞ってくださいました。
みんなもらい泣きしながら、でも後には声楽の先生のジョークで笑顔に戻った温かい思い出は忘れられません。
生徒一人一人のことを親身に考え、それぞれに合った指導法で私たちをご指導くださったご夫婦先生の温かさと適度な厳しさは、私の指導の源となっております。
実は私には、生後間も無い頃の高熱のせいで、左の指に軽い麻痺があります。
そんな私の特性を瞬時に見極め、正しく的確な指導をして頂いたおかげで今日の自分があります。
聴覚を失ったベートヴェンが失意のどん底から這い上がったエピソードを交え、弱点を強みに変えていくことの尊さを話してくださいました。
その教えは、今の私の指導法の礎となっています。

大学以降~就職

大学は中学時代の憧れの先生の母校である昭和音楽大学声楽科に進みました。
そこではソロ、アンサンブル、オペラ、オラトリオ、合唱など多くの声楽曲を学びました。
同時に地域の子ども達へピアノを教える活動に参加しました。
そこで音楽の基礎や楽しさを子どもにわかりやすく伝えことの楽しさと同時に責任感を強く感じ、音楽教育学を学びたいと思い、教育学部のある地元の琉球大学大学院へ進学しました。
3大音楽教育メソッドをはじめ、日本に現存する数々の教育メソッドを学びました。
音感教育の一つ佐々木基之考案「分離唱」について、その効果を得るためママさんコーラスを立ち上げ実証実験を行いました。
また、オペラ公演において合唱を手伝うとともに実行委員として、楽譜の扱い、衣装、オーケストラとの連絡、チラシ、プログラムなど運営に関する裏方を数多く経験しました。
声楽はイタリア、ドイツ、フランス、スペイン歌曲、器楽はピアノとヴァイオリンを専攻しました。
私は器用な方でありませんでしたが、どんな時も全ての先生に温かく、丁寧にご指導いただき、あきらめないで努力し続けること、音楽に謙虚で素直でいることの大切さを教えていただきました。
かかわってきたオペラと合唱をテーマにした論文で修士号を取得しました。
様々な教育現場で指導に当たって来ました。
その中で決して家庭環境が良いとは言えない状況で入学される学生さんもいらっしゃいました。
ピアノに初めて触れる学生さん、楽譜がまったく読めない学生さん、親代わりとなって下の兄弟の学費をまかなうために深夜にアルバイト、日本語がほとんどわからない海外からの留学生、急遽ご実家の保育園後継者になったことで入学された土木関係のお仕事の中年男性など。
このような学生さんをすべて卒業までの在籍2年で、弾き語りができ、保育園就職まで責任を持って導いてきました。
これは、私が出会った数々の恩師からいただいた諦めない心、苦悩を努力に変えることの尊さ、を教えていただいた賜物だと思っております。
大事な生徒さんを預かることの責任感、常に学びを止めない向上心、的確な指導、一人一人に寄り添った愛情、どれも一つとして欠けてはいけないものだと思います。
このことを自分の指導方針の柱とし、これからも指導者として邁進していきたいと思っています。          

メディア 職歴

チャリティーコンサート、学校公演多数出演。
2006年沖縄出身の音楽教育家で作曲家宮良長包をテーマにしたドキュメンタリー映画「宮良長包」にソプラノソリストとして「なんた浜」を独唱、好評を博す。
また、「宮良長包の生涯と作曲作品について」と題した市民講座に登壇、歌曲を披露するとともに教育者としての宮良の人生、生き方について講義を行う。

卒業後は 沖縄キリスト教短期大学(保育科) 沖縄福祉保育専門学校(保育科) 近畿大学豊岡短期大学通信教育部 にて各非常勤講師 自宅で音楽教室を主宰、後進の指導に当たる。
これまでにのべ1500人を超える学生を指導。